Profile

掲載者略歴


藤田敏正(ふじたとしまさ)Toshimasa Fujita
滋賀県甲賀市在住、72歳(2024年2月現在)、freelance translator

小さい頃進学するなら農学部と決めていた。
1967高校。行くんなら大阪一へ行けと担任に言われ、行く。しかし進学校って何か知らなかった。学校の教育方針に反発。成績急降下。
1968-70宮沢賢治になろうとする。

作品第一〇八八番

降る雨は降るし
倒れる稲はたおれる
たとえ百分の一しかない蓋然(がいぜん)が
いま眼の前にあらわれて
どういう結果になろうとも
おれはどこへも逃げられない
・・・
もうレーキなどほうり出して
こういう開花期に
続けて降った百ミリの雨が
どの設計をどう倒すか
眼を大きくして見てあるけ
たくさんのこわばった顔や
非難するはげしい眼に
保険をとっても
弁償すると答えてあるけ
・・・けれどもああまたあたらしく
西には黒い死の群像が湧きあがる・・・

賢治は農学校の教師をやめ、自身、「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」られるくらいの土地を耕し、一方で近隣農民のための肥料設計を無料でやった。しかしその稲は雨に倒れた。「弁償すると答えてあるけ」は厳しい。しかしそういう厳しさにあこがれた。

(「和風」を賢治はどう読んだかわからないが、私はそのまま「わふう」と読んでいる。新字源でも「わふう」のどかな春風)
和風は河谷いっぱいに吹く(作品第一〇八三番)
ああ
南から西南から
和風は河谷いっぱいに吹いて
汗にまみれたシャツも乾けば
熱した額(ひたい)やまぶたも冷える
起きあがったいちめんの稲穂を波立て
葉ごとの暗い露を落して
和風は河谷いっぱいに吹く
あらゆる辛苦の結果から
七月稲はよく分蘖(ぶんけつ)し
豊かな秋を示していたが
・・・
穂も出し花もつけながら
ついに昨日のはげしい雨に
次から次と倒れてしまい
ここには雨のしぶきのなかに とむらうようなつめたい霧が
倒れた稲を被っていた
・・・
そうしてどうだ
今朝(けさ)黄金の薔薇(ばら)東はひらけ
雲ののろしはつぎつぎのぼり
高圧線もごろごろ鳴れば
澱んだ霧もはるかに翔(か)けて
とうとう稲は起きた
まったくのいきもの
まったくの精巧な機械
稲がそろって起きている
・・・
ああわれわれは曠野(こうや)のなかに
蘆(あし)とも見えるまで逞(たく)ましくさやぐ稲田のなかに
素朴なむかしの神々のように
べんぶしてもべんぶしても足りない

(賢治の童話を私は読まない。日本近代詩に詩人は賢治と高村光太郎の二人しかいないと、称えてやまない私だが、たとえばグスコーブドリの犠牲など、思想の未熟な少年少女には危険なだけである。詩では上のように峻烈な現実と対決して実践的であるのに対し、童話では実体のない想像のみで、著しく観念的である。「銀河鉄道」などほとんど自己陶酔の郷愁ファンタジーであって、少年少女の健全な宇宙観を育むなどとうていできない。)

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱(かや)ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束を負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ

「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ、ホメラレモセズ、クニモサレズ」、これだけで十分である。詩人は理想を詩(うた)う。「ホメラレモセズ、クニモサレズ、ソウイウモノニ、ワタシハナリタイ」と詩って、賢治は人間精神が持ち得る至高の理想を詩ったのである。なぜ子供の純真が出てこない童話など書こうとしたのか。返す返すも残念である。
1970大学受験。札幌へ向かう夜行列車に夜が明けると、窓の外は雪の絶壁だった。北国の冬の現実を見た。こんなところで農業教えるのか。だれに?教えられるはずがない。すべては子供の幻想だった。大学も落ちた。もともと通るはずのない成績だったが、とにかく受けてみたかった。親にはとんだ散財をかけた。
1971この年も落ちた。二期校の宇都宮大は通った。数学はたぶん100点だったと思う。英語もそれに近かった。しかし一期と二期の間にあった京都府大は落ちた。化学がよくなかった。それがあろうことか、宇都宮へあすは旅立つというまさに前の夜、電報が届いた。合格だと言う。屈辱の補欠入学だった。そんな制度は知らなかった。府大は京大のすべり止めでしかない。だから京大の落とし子が集まるが、農学部なんぞに何の興味もない連中のはきだめになる。それを嫌って、合格発表後辞退するやつが相次ぐ。大学は定員を満たさなければならないから、一度は不合格にしたやつを拾って合格にする。されるほうはたまったものではないのだ。宇都宮では下宿先も決まっていた。それまで一度たりと息子のやることに口を出さなかった父が、強く京都を希望した。勤め先が倒産して苦しかったのだ。息子は残酷だった。しかし遂にやむなく下宿先のおばさんに電話して説明し、泣く泣く解約してもらった。すごくすまなかった。
1971京都府大。学生に情熱はなく、教育も適当だった。卒論は「カキ果実の果形に関する組織学的研究」。ごたいそうなタイトルだが、中学生でもやれる顕微鏡観察だった。
1975卒業。別大学の院へ。カキの実が丸かろうが平たかろうが、人類の幸福と福祉に何の関係もない。 このまま卒業しても意味はないと。大学院へ入るのは、大学に入るより100倍くらいたやすい。つまりよその大学から来た院生は、入った大学院の名を名乗りたくない。そこには少しましなテーマがあった。モモの苗木(実生、 みしょうという)の連作障害。モモの木は古くなって切って、同じ場所に苗を植えると育ちが悪い。 枯れることも珍しくない。この原因と対策を考える研究なら、カキの丸い平たいよりは農業に直結する。 宮沢賢治になれるかもしれない。しかしこれも幻想だった。桃栗3年柿8年、柚子の大馬鹿13年(梅は酸い酸い13年 とも)の世界で、2年はないも同然。一応実生の連作は生育不良を招くようだという実験結果は得たが、それは始まりでしかない。果樹園経営にはそこから先が命である。しかし修士2回の最後のゼミで、農学部はもっとものの原理を追及しなければ ならないとブチ上げたら、隣の研究室の教授が「やめなさい」と叱りつけてきた。一場静寂に凍りついた (この大学は2つの研究室が合同でゼミをやっていた)。果樹は薬を吹き付けて、熟してないのに色だけ付 けて売り出したりする。そんな実験ばっかりやっててはだめだと思った。原理とは、たとえばサツマイモは 冬のあいだからイモを堆肥の発酵熱などで暖めて芽出しする。なぜそうしなければならないのかの理屈が原理 である。それがわかってないと、4月5月に芽出しした農家は12月か翌1月にしか収穫できない。しかしその 前に寒さで葉は枯れる。イモは腐る。イモは秋、霜が降りるまでに太らせなければならないのだ。だから2月3月から加温して芽出しする。 そういう栽培原理をあらゆる作物について研究し、人々が使えるような形にまとめ、学生には教育する 。それが大学や大学院じゃないか。そういうことを言おうとしたのに、教授は気に入らなかった。
1977修士課程修了。外務省外郭団体(政府機関ではない。したがって職員も公務員ではない)が募集する海外ボランティアに応募 。西サモアは南太平洋大学の農学部へ。学長いわく、何もしてもらいたいことはない。何でもいいと思うことをやってくれと。
1977-79グアバを摘んでジャムを手作りしたが、これは本当においしかった。酸味が上品で甘味とのバランスが絶妙だった。いまだにあれ以上おいしいジャムに出会わない。この点グアバの栽培は魅力だったが、熱帯の人々はだいたい 勤労意欲が薄い。サモアはほとんど南太平洋の絶海のようなところにあるので、消費地から遠い。ハワイにはとうてい勝てないと思った。次にマンゴーの熟度の見分け方で 論文を書こうと実験を始める。現地の人たちは、木を下から見て、熟している果実を落とす。どうも違いがわからない。色ではないと言う。よくよく調べてみると、実の太り具合だった。はじめ手のひらを合わせたような平べったいところから、両手でおにぎりを包むような丸みを帯びてくる。 つまり横にふくれてくる。確かに平べったいものと丸みを帯びたものの色に大きな差はない。そこで長径と 短径を測って比を取って、酸をアルカリで滴定して糖度も測った。太るにつれて酸は下がり糖は上がり、実に きれいな曲線が描(か)けた。あと1回のサンプリングでグラフは完成する。カキ果実の果形の組織学的研究は、 こんなところで生きてきた。 いや、これくらいのこと、小学生の自由研究でも思いつく。さて朝まだだれも来ないうちから、わくわく しながら研究室へ向かうと(下の写真。小学校の理科室のほうがよっぽど研究室らしい)、前の日に取っておいた サンプルのマンゴーがない。それまで3ヵ月近く測定を続けてきた苦労がすべて水の泡になった。論文は あきらめた。しばらくして犯人が現れる。「あのマンゴー知らないか」と聞くと、「食べた。うまかった」と言う。そんなこと聞いてない。希代 の浮気男ファアムームーだった。



1年に2回か3回しか出勤してこないこいつが、よりによってこっちが一番大事な最後の最後の測定の日に、 それに使うサンプルを食べやがった。向かって左はシアレイ(たぶんShellyのサモア語なまり)。一応ガラス室を持ってランを育てていたが、 研究かどうかは怪しかった。怪しかったので、それ以上突っ込んでは聞かなかった。恋人はタクシードライバーで、おそろしく肥満のオッサンだと、ここに写ってない室長サラミーナがひやかしてた。大きな声ではきはきしゃべる、元気もりもりの活発乙女だった。ただ東洋からきた女遊びをしないかたぶつとは、付き合い方がわからないようだった。もっとこちらから話しかけてやるべきだったと反省する。今思うと、それだけが同僚として心残りとなった。マンゴーはあきらめて、次にパッションフルーツの 人工授粉と収量の関係を調べ、一応論文が1つ書けた。これで赴任の責任は果たしたというふりはできた。
1981帰国後2年目。企業の研究所で農薬の開発はやりたくなかった。農林省の 農業普及員も実態は知っていたので、なる気はさらさらない。しかたなく翻訳のバイトをやった。 お金にできるものは英語しかなかった。ある会社で社員にならないかと誘われ、そこで7年ほど外注訳者からの納品物の点検や手直しをやる。英訳和訳(業界では日英英日という)の中身は99%が工業技術。訳者は貿易会社退職の専門家を除き全員文系である(医薬系は別系統)。彼ら彼女らの訳にはとんでもない思い違いがある。加熱した鉄の表面に付く黒皮(くろかわ)。black skinという言い方もなくはないが、製鉄製鋼エンジニアはscaleという専門用語を好む。鋼番はsteel numberではなくheat numberか単にheat。そういったことを点検する。
1988やがてとんでもない畑違いの部署へ変えられ、営業は不得手だから社に迷惑をかけ始めた。辞めるのも迷惑には違いなかったが、辞める方が被害は少ないはずだった。以後、しがないフリーの翻訳者である。

ページのトップへ戻る